2008年06月09日
2008年06月01日
阿部正弘
今日の『篤姫』で阿部老中の出身地である福山の紹介があって思い出した。
先日事務所のHPを見た福山のお医者さんから電話をいただいた。
事務所で作成している趣味のブログ 茶道「古石州流」のHPを見みて
その方が調査されている姫谷焼きに関係のある宗家のことを知りたいとのことだった。
お礼にその方が書かれた本を送っていただいたのだが阿部正弘が開いた福山藩の藩校の流れをくむ誠之館高校の出身で、そのことをとても誇りにしておられることがひしひしと伝わってくる内容だった。
先に書いた契丹文字といい、姫谷焼きといい 在野にはいろいろなすごい人がたくさんいる。
そういう人達と少しずつつながるのも、ほんと不思議。
歴史のなせるわざなのかも。
◇
「古石州流」は賤ヶ岳の七本槍の一人片岡且元の甥片桐石州を祖とする。
豊臣家が滅んで以降の片桐家のことは諸説あるがどうやら福山におちのびたらしく宗家はもともと福山の出身である。
歴史ファンのtanaka事務所としては「石州流」の歴史についても調べてみなくちゃ。
◇
茶道つながりで
祝島には茶人には有名な「カジノハナ」がある。
牧野富太郎氏が“「カジノハナ」は祝島に自生”と紹介されたそうで随分前に岡山の茶道家の方からどうしても見てみたいとお電話をいただいたことがある。
2008年05月25日
2008年03月22日
村上文庫
クライアントの紹介で柳井の伊保庄にある「村上文庫」へ。
こんな片田舎にこのようなものが遺族によってきちんと管理されて残されていることにまず感動。
村上磐太郎氏が収集された資料を保管するためのこの文庫は建物もすばらしく、母屋と文庫のある離れ、それをつなぐ庭、どれも手入れがいきとどいて美しい。
持ち主の意向であまりおおやけにしたくないとのことで写真をHP等に公開することはかたくなに拒否されているそうだ。
紹介できないのが残念。
最初お茶室に通され磐太郎氏の奥様(90すぎてるそうだけどカクシャクとされている)のお手前で「煎茶」をいただく。
さすがに旧家らしくここにも文化が脈々と受け継がれている。
資料は昔柳井の中学校で英語を教えられていたという村上ショウゴ先生(着方良しでとても90歳に見えない)が磐太郎氏がなくなった後にひとつひとつ整理されたそうだ。
その目録はわかりやすく整理されていて、目録を片手に書庫をながめると目的の書物や資料がちゃんとでてくるようになっている。磐太郎氏が調査の際のやり取りも項目別に整理され、手紙や覚書のメモもまとめられている・・宝の山!
案内をしていただいた人達をそっちのけで、あっという間に2時間経過。
時間がいくらあっても足りない。後ろ髪を引かれる思いで退出。
ショウゴ先生の手書きの目録の一ページ。達筆。
「祝島」と書かれたものもたくさんある。
磐太郎氏は「若山牧水」に師事していた歌人でもあり、
そういう資料もある。とにかく博識。
人の縁とはほんとうに不思議なもので、すばらしい人達に出会え
このような機会を与えられたことに感謝。
2008年03月21日
民衆史 その100年
色川大吉 「民衆史 その100年」
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マーチンさんにお勧めであげたら、昨日船で偶然一緒になったマーチンさんから博士論文のテーマ、この本から影響を受けて少し変わったという嬉しい言葉を聞く。
今年からイギリスの大学で教えることが決まったそうで、1年に1度は研究のために上関に帰ってくるらしい。
幕末から明治にかけて上関・室津の人々の考え方や政治・経済がどのように変化したか調べていくとのことだ。
明治から昭和初期にかけて大島郡だけでなく上関や祝島からも多くの移民があり、その人達の奇跡をたどるのも面白く、しかもそれが祝島独特の株内につながっているのが興味深いとのこと。
上関のみならず祝島の歴史についても新しい展開がみられるかも。これからのマーチンさんの活躍に期待。
それにしてもイギリス人のマーチンさんがこのような微妙な日本人の心を理解できるのが不思議でたまらない。
2008年03月11日
口承伝承 出田氏記録その1<祝島ネット21会報>
「祝島の歴史を探る」で引用した故出田政次氏の「郷土の口説」をこれから少しずつ紹介していきたいと思います。
出田氏は子供を亡くした深い悲しみを祝島の風土によって癒され、
そのことが祝島を見つめなおすきっかけとなったようです。
「郷土の口説」の冒頭には
「悲しみ失望(しつぼう)にみちた、やるせない我(わ)が身(み)を地にうつ伏(ふ)して、
息を殺(ころ)して大声をあげてなげき号泣(ごうきゅう)し、
天のみちびきの恵(めぐみ)も無い身を嘆(なげ)きつゝ、
あぁーと空を仰(あお)ぎ見れば、
空も海も青一色に染(そ)まりどこまでも青い、
その青い海中に、ゆったりと、
美しく真珠(しんじゅ)か玉のように浮(う)かんでいる嶋、
うつむいて脚下(あしもと)を眺(なが)めれば、
絶壁(ぜっぺき)で非常(ひじょう)に長い切り立った崖(がけ)、
非常に高く深い無数(むすう)の岩礁(がんしょう)がそびえ立ち、
大波のために打ち砕(くだ)かれている、
ひろびろとした海に広がる波は、青空につらなり、
遥(はる)か遠くに汽船(きせん)が通っていく。
振(ふ)り向いて、山々を眺(なが)めれば、
平凡(へいぼん)でありながら、不思議(ふしぎ)なまですぐれている。
遠い昔から、山々は動ぜずゆったりとしてたたずみ、
青々として草木に包(つつ)まれている。
この俗界(ぞっかい)から離れた清らかな故郷(こきょう)を懐(なつか)しみ、
郷土(きょうど)の歴史(れきし)を編纂(へんさん)しようと思いつき、
作詞(さくし)致しました。
春は桜の綾衣(あやごろも)着て鯨(くじら)潮(しお)噴(ふ)く此(こ)の
仙郷(せんきょう)を祝いませとや祝の嶋を
(祝島の春は、島がまるで桜の絹の衣を着たようだ、
そして海では鯨の群れが潮を噴く、
その美しい郷を見れば自然に拝み崇(あが)めたくなるほどである、
祈りの島・祝島として)」と書かれています。
今回は第1回目の会報で書いたあたりまで紹介します。
「周囲(しゅうい)3里ほどの青々とした嶋も、
古くから伝わる古事(こじ)・由来(ゆらい)や発掘(はっくつ)し出土(しゅつど)した品数々がある。
まず、石器(せっき)時代(じだい)から縄文(じょうもん)・弥生(やよい)時代の
文化が発達(はったつ)し始めた頃(ころ)に、
少しずつ開かれ出した自然界(しぜんかい)の神秘(しんぴ)、
夢(ゆめ)の浮(う)き嶋・伽(おとぎ)の国のような嶋を、
石器時代には市杵嶋(いちきしま)姫(ひめ)(市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと=天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔鳴尊(スサノオノミコト)との間に生じた宗像(むなかた)3女神の1。
厳島神社(いつくしまじんじゃ)の祭神(さいしん)とも)が方々を
巡(めぐ)り歩く途中(とちゅう)に風光(ふうこう)明媚(めいび)
(山水の景色がすぐれて美しく人の心をひきつける)で
神秘(しんぴ)の祝島の地、ここを永住の地に定めたいと思(おぼ)し召(め)されたが、
残念(ざんねん)ながら七浦(ななうら)蛭子(えびす)に
一浦足(た)りぬ(七浦蛭子に一浦足りぬは意味不明)、
そこで宮嶋を目指(めざ)して移住(いじゅう)の時に
櫛(くし)とコーガイ(髪(かみ)をかきあげるのに使う道具、
箸に似ている)を落されたとか。今の櫛石・コーガイ石(材質=銀・象牙(ぞうげ))はそれを真似(まね)して伝(つた)えたものであろうか。)」
おしいですね、あと一歩でメジャーデビューの機会をのがしました。
「十四代仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)、神功(じんぐう)皇后(こうごう)が三韓(さんかん)(新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高麗(こうらい))征伐(せいばつ)の時に、瀬戸内海(せとないかい)を帰航(きこう)するおりに、戦国(せんごく)船(ぶね)を繋(つな)がれたとみられる濱(はま)の平も、今では陸地(りくち)や畠(はたけ)となり、祝島が、蓬莱(ほうらい)嶋(じま)・硫黄(いおう)嶋・岩疊(いわたたみ)嶋・石見嶋(いわみしま)と呼(よ)ばれるころには、最早(もはや)、航海上(こうかいじょう)の要路(ようろ)の嶋として広く社会へ知られていた。」
会報で紹介した田中繁雄氏の「神功皇后」で書かれた出来事です。
田中氏は誰から祝島の話を聞いたかもう覚えていないらしいのですが、
祝島については興味をもっておられるようで
島に「額田王」がきたという伝承はありませんかとも聞かれました。
田中氏も「額田王」が熱き田津の湊を出発した後,
祝島にも立ち寄ったのではないかと考えられているようです。
(いずれ「額田王」についても小説をだされるようでいろいろ調査されているとのことでした。)
「用命(ようめい)天皇が、豊後(ぶんご)から帰る途中(とちゅう)、
玉依(たまより)姫(ひめ)(記紀神話(ききしんわ)で
綿津見神(わだつみのかみ)(海神)のむすめ。
鶴鷲草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の妃(きさき)で
神武(じんむ)天皇(てんのう)等(とう)の母など3説(せつ)あり)を
我(わ)がものにしたいと考え、真野(まの)の長者(ちょうじゃ)を
訪(たず)ねたおりに、般若(はんにゃ)姫(ひめ)が、
玉依(たまより)姫(ひめ)の身(み)変(が)わりとなって、
海の神にと身を投(とう)じた。
今も残る大畠(おおばたけ)の瀬戸(せと)では、年の暮(く)れ、
満潮(まんちょう)の丑(うし)三(み)つ時(どき)になると
灯明(とうみょう)が上がり、
伊保庄(いほのしょう)般若寺(はんにゃじ)の老(お)い松(まつ)の基(もと)へ火が灯(とも)り、
最後(さいご)に御堂(おどう)の仏壇(ぶつだん)へ火が灯(とも)ったという現象(げんしょう)が起きるとの実例(じつれい)こそは、不知火(しらぬい)(暗闇(くらやみ)の海に表(あらわ)れる得体(えたい)の知(し)れない多くの火)の火魂(ひだま)と呼(よ)び、そのおり島の名も祝嶋にと変わり、今なお残る祝(いわい)の口(くち)に船(ふね)を着(つ)けられて、祝いの酒盛(さかも)りをされたという。」
柳井の「般若姫伝説」に関わる祝島。
海に身を投じた般若姫の眠る平生の般若寺の観音堂右側にある日光・月光の窓には、
毎年陰暦の大晦日、丑寅の刻、海上から上がった火の玉がするすると入っていくと云われているそうです。
2007年12月12日
またかい祝島
hanaさんからどこの城南高校かわかりませんが
と送ってもらった「祝島」
なんとたぬこちゃんの出身高校でした。
おそらく名芸専のメンバーで学友の出身高校を覚えているようなアホはいてないと思うけど
なぜだかたぬこちゃんの出身高校だけ覚えていた私。
中身を読んであれっと思って久しぶりにメールを入れて確認。
城南高校の郷土研究部が島にやってきたのは私たちが中学1年か小学6年。
中村真一郎さんの「祝島の思い出」にはまさにその当時の私達の姿が書かれています。
なんとも感慨深い資料をいただきました。感謝。
この中村さん今はどうしているのでしょうか。
これがきっかけで送れたメールで勝雄ちゃんの「東工大」入学を知る、おめでとう!
2007年12月02日
永禄4年
今日のNHK大河ドラマ「風林火山」は
激戦を極めた第4次川中島の戦いに出陣、決戦前。
頼山陽が「鞭聲粛々夜川を渡る」と読んだ戦いが始まろうとしています。
永禄4年(1561)の八幡原の激戦。
同年祝島では「八幡宮」の造営が行われています。
その時の棟札には「上棟奉建立八幡宮本願長蔵寺」という興味深い文字が刻まれています。
2007年09月30日
久しぶりの平等院
何回目でしょう。
でも久しぶりに来た平等院の様子が随分変わっていました。
報道関係者がやたら多くて何があったのかしら・・・
<29日に平成の大修理を終えた国宝の本尊「阿弥陀如来坐像の開眼法要が営まれた>そうです。
いつの間にか「平等院ミュージアム鳳翔館」が建設されていました。
設計は栗生明+栗生総合計画事務所
床と階段の納まり等施工もかなり大変だと思われますがきれいに納めています。
ちなみに施工は大林組。
すっきりした庇を考えてる最中なのでこの庇というか屋根のディテールがやたら気になります。
ガラス面にはシーグフィルムが貼られているそうです。
シンプルな屋根の支持材(垂木のようなイメージ)。
裏口に新設されていたチケット売場の庇もシャープで美しい。
樋の処理がうまいです。
2007年09月08日
談山神社
奈良県桜井市にある談山神社
談山は中臣鎌子(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(後の天智天皇)が大化改新の談合を行った山とされ、後に鎌足の子が鎌足公を祀るために造営されたのが談山神社だそうです。
吉野や十津川からの帰りに通るたび気になっていたのですが
寄り道する時間もなくて・・一度訪れてみたかった場所でした。
すごい急な石段・・
拝殿より楼門を見る。
深い緑に囲まれた拝殿の廻りはとても涼やか。
街中はすごい暑さでしたがここは別世界。
談山神社といえば
拝殿を支えるこの柱脚が印象深い。
美しい。