祝島・えべすや@祝島の情報

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2008年08月16日

神舞Ⅱ


しゃぎり

御座船を迎える。

人気者
船酔いする子が頑張って約4時間の長帳場を耐えました。
あいにくの天候で波のある中で立派に踊れて
みんなから拍手喝采をあびました。

取材中

櫂伝馬が舞場のある東のハトへ

神舞Ⅰ


着替え、化粧中。

取材もたくさんはいってます。

いよいよ三浦へ向けて出発。

神舞の始まりです。

三浦に向かう途中

三浦三軒?の三野家長女1番と氏本氏
あとひとりそろうと島は最強のメンバーになるのかも・・・・
三浦ではなくこちらで伊美からの宮司さんたちを迎えるのだそうです。

今年度の巫女勢ぞろい。
約2名関係無いのも写っていますが・・・

2008年06月29日

祝島の福祉について考える~その1

柴田書店から毎月発行されている『cafe_sweets』
ついつい毎号買ってしまう。

建築なんかやめてこんなことしたいなあという願望。

前々からブログに書きたかった祝島の福祉。
これから少しづつ考えてみよう。
高齢化がすすむ地域の抱える問題はどこも同じ。
遠く離れて暮らす家族にとって年老いた親の心配は誰でも同じでしょう。
しかし、住み慣れた島での生活を捨てられるわけもなく、
また都会で一緒に暮らせる場所もないという問題もあって
祝島人特有の我慢強さに甘え、問題解決されないまま時間だけがすぎていく。
なんとか今のまま、他人に迷惑をかけず楽しい老後をすごせることを考えてみる。
施設の設計をしている自分がこんなことを書くのははばかられるけど
島で生きてきた人間にとって自然や社会とのかかわりをたたれてしまう施設や病院になんかはいろうものならそのまま弱っていくだけ。
どんな立派な施設にもこれだけはない。
(外部との関わりを持とうと施設側が努力をしてもなかなか受け入れてはもらえない)
しかし、帰省するたび知っている人が施設に入ったり病院に入ったりで寂しい思いをすることが多い。
家族があって、そういう対策でも考えられる人はいいけど、ほんとに一人の人はどうしているのだろう。
島の友達に聞いたら近所で面倒みてるんよと言われるけど、都会と違い、特に田舎では不便も多いでしょうに。
(今度島のみんなに聞いてみたい。何が不自由か。どうしたら楽になるか。ひとりでできるか。)
私の家のように若い(くもないが)家族がいても手をやくのに、お年寄り夫婦だけの家族や一人暮らしの人はどうやって毎日を過ごしているのか不思議でしかたがない。

実家の店には買い物に来れない人から配達の依頼があったり、起伏の多い島の道で重い荷物をもつのが困難な人には後で届けてあげたりしているけど、依頼すらもできない人もいるのではないかしら。
島の家は外だけでなく、家の中も段差だらけで、お風呂も在来の寒いお風呂がほとんど。
台所も土間のまま使っている人も多い。
食事を作るのも、お風呂に入るのも大変だろう。
みなさんどうしているのでしょうか??

歳をとってなかなか外に出れない人もいる反面
元気な御年寄りも多いのが祝島の特徴。
漁にでたり山に行っている人は私よりずっと元気だ。
「忘れられた日本人」的なことが大切なのかもしれない。
(これで充分と満足する気持ちをもたなきゃ。)

では具体的にどうしたらよいか。
少しづつ考えていくことにしよう。

考えていたことのひとつはこれ・・

お昼になると店の前にはこんな風に人が集まってきます。
店で買い物をするというよりここに集まる人同士話をするのが楽しみのようです。
一人暮らしの多い島では家の中では話をする相手がいないので
仕事をしてない人は少々引きこもり気味になります。
そうすると自然、物忘れがひどくなったりしてうつ状態になってしまいます。
なのでこうして毎日でかけるところがあればいいと思うのです。
デイサービスとかそんなかたくるしいものじゃなくて
誰が世話をするわけでもなくお天気の日にはここに座っているだけでもいいと思います。
(デイサービスでは何かをさせられるという感があるので自然体でいられる工夫が必要)
困ったことがあれば手を貸せる人が助け、逆にできることはやってもらうというような情報交換をここでやってください。


せっかくなのでここでお茶もできるような施設があったらと考えています。
コーヒー好きの私としては店の前で寄り合いcafeをやりたいのですけど。
海側のCB塀をとれば(なんでおとうは生垣をこんな塀にしたのか)盆山の特等席だし、
島に帰省する人たちの交流の場となればなおよい。
島の美味しい食材を使ったお昼ご飯も提供できます。
意外に島の人はパン好きなのでkinちゃんにパン種を冷凍して送ってもらい天然酵母のパンも提供できます。

こんなのとか(今設計中のプロジェクトの一環で蔵を改修したカフェ&ギャラリー)

島の自然を満喫できるようこんなオープンなcafeとか、いといろ考えているけど
なんせ肝心の資金がない。

まあ、これで充分かもしれないけどね。

できれば食事と入浴サービスをできるだけの設備があれば文句なし。
仕事で知り合った福祉のプロ達がアドバイスはくださるでしょうし。
(事業をしてくれたらなおよいのだけどなあ、Tさんいかがでしょうか)

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2008年06月09日

かいびき緒

祝島ネットの会報で今回とりあげた縄のククリカタ
建築士のくせに、注意不足でござんした。
櫂伝馬の櫂をつなぐ縄。
場所によって縄の材料・編み方と結び方が違う。
村上氏の研究文を読んで初めて見ました。

漕ぐ櫂をつな“結び緒”

舵をとる櫂をつなぐ“貫き緒”
これを機に調査します。

2008年06月01日

阿部正弘

今日の『篤姫』で阿部老中の出身地である福山の紹介があって思い出した。
先日事務所のHPを見た福山のお医者さんから電話をいただいた。
事務所で作成している趣味のブログ 茶道「古石州流」のHPを見みて
その方が調査されている姫谷焼きに関係のある宗家のことを知りたいとのことだった。
お礼にその方が書かれた本を送っていただいたのだが阿部正弘が開いた福山藩の藩校の流れをくむ誠之館高校の出身で、そのことをとても誇りにしておられることがひしひしと伝わってくる内容だった。
先に書いた契丹文字といい、姫谷焼きといい 在野にはいろいろなすごい人がたくさんいる。
そういう人達と少しずつつながるのも、ほんと不思議。
歴史のなせるわざなのかも。

「古石州流」は賤ヶ岳の七本槍の一人片岡且元の甥片桐石州を祖とする。
豊臣家が滅んで以降の片桐家のことは諸説あるがどうやら福山におちのびたらしく宗家はもともと福山の出身である。
歴史ファンのtanaka事務所としては「石州流」の歴史についても調べてみなくちゃ。

茶道つながりで
祝島には茶人には有名な「カジノハナ」がある。
牧野富太郎氏が“「カジノハナ」は祝島に自生”と紹介されたそうで随分前に岡山の茶道家の方からどうしても見てみたいとお電話をいただいたことがある。

2008年05月15日


インスタントラーメン「うまかっちゃん」


写真は橋部さんのHPより拝借

祝島
先週土曜に来島された大阪市大の住田先生はいつもお世話になっているN川さんの恩師だそうだ。
N川さんは住田研に所属し、卒論も当然先生にお世話になって・・・
N川さんが勤務する事務所の所長Y野さんの京大の同級生らしい。
住田先生は西山卯三氏の流れをくむ住居学・地域計画学(?)の権威。
そんな方が祝島に来てくださるなんてとても嬉しいことだ。
島で楽しそうに過ごす住田先生を見てN川さんもとても喜んでくれた。
<人の縁がどんどんつながる。>
この年代の京大出身者はみなさんそうとう博識でとても個性的だ。
また紹介しよう・・<この人たちの知識を冷凍保存できないものかしら。>

2008年05月07日

祝島 浜本のあぶらげ


河本のふみちゃんとこのおばちゃんにもらったスナップえんどうと祝島の揚げをたいたん。
祝島のあぶらげは煮物をすると味がしっかりでてひじょうに美味しい。

2008年05月06日


弟作 アナゴと玉子の箱寿司

断面

おなじみとなった槌谷のよもぎまんじゅう!
おばちゃんはまた講釈をたれていた。
いつも笑わせてくれてありがとう。
この前いちじくのジャムを作ってみたが美味しくないといっていたので
おばちゃんにお気に入りのいちじくジャムを試食してもらおうと持って帰っていたのに渡すのを忘れた。

2008年03月30日

村上可卿集

村上文庫に行った時にいただいた「村上可卿集」
村上磐太郎氏が亡くなられた後に出版されたそうです。

研究文と随想の2部構成となっています。
ここに記載された研究文は歌人の村上さんらしく
歌をテーマに歴史的な背景を研究されています。

「祝島の歌」という興味深い研究文もありました。

2008年03月29日

無農薬レモン

槌谷製無農薬レモン

事務所の子におすそわけしたら焼酎に入れようと言ったので思い出して「ジントニック」に入れてみた。微妙・・・

2008年03月23日

おはぎ


槌谷さん作「おはぎ」
中にキビ?アワ?が入っていてとても柔らかい。
「あんをちょっとこがしたのいね」と言いながらくれたおはぎ。
母曰くおばちゃんはこがすのがエテらしい。
今回も笑わせてもらいました。

2008年03月11日

口承伝承 出田氏記録その1<祝島ネット21会報>

 「祝島の歴史を探る」で引用した故出田政次氏の「郷土の口説」をこれから少しずつ紹介していきたいと思います。

 出田氏は子供を亡くした深い悲しみを祝島の風土によって癒され、
そのことが祝島を見つめなおすきっかけとなったようです。
「郷土の口説」の冒頭には
「悲しみ失望(しつぼう)にみちた、やるせない我(わ)が身(み)を地にうつ伏(ふ)して、
息を殺(ころ)して大声をあげてなげき号泣(ごうきゅう)し、
天のみちびきの恵(めぐみ)も無い身を嘆(なげ)きつゝ、
あぁーと空を仰(あお)ぎ見れば、
空も海も青一色に染(そ)まりどこまでも青い、
その青い海中に、ゆったりと、
美しく真珠(しんじゅ)か玉のように浮(う)かんでいる嶋、
うつむいて脚下(あしもと)を眺(なが)めれば、
絶壁(ぜっぺき)で非常(ひじょう)に長い切り立った崖(がけ)、
非常に高く深い無数(むすう)の岩礁(がんしょう)がそびえ立ち、
大波のために打ち砕(くだ)かれている、
ひろびろとした海に広がる波は、青空につらなり、
遥(はる)か遠くに汽船(きせん)が通っていく。
振(ふ)り向いて、山々を眺(なが)めれば、
平凡(へいぼん)でありながら、不思議(ふしぎ)なまですぐれている。
遠い昔から、山々は動ぜずゆったりとしてたたずみ、
青々として草木に包(つつ)まれている。
この俗界(ぞっかい)から離れた清らかな故郷(こきょう)を懐(なつか)しみ、
郷土(きょうど)の歴史(れきし)を編纂(へんさん)しようと思いつき、
作詞(さくし)致しました。
春は桜の綾衣(あやごろも)着て鯨(くじら)潮(しお)噴(ふ)く此(こ)の 
仙郷(せんきょう)を祝いませとや祝の嶋を
(祝島の春は、島がまるで桜の絹の衣を着たようだ、
そして海では鯨の群れが潮を噴く、
その美しい郷を見れば自然に拝み崇(あが)めたくなるほどである、
祈りの島・祝島として)」と書かれています。
 
今回は第1回目の会報で書いたあたりまで紹介します。
「周囲(しゅうい)3里ほどの青々とした嶋も、
古くから伝わる古事(こじ)・由来(ゆらい)や発掘(はっくつ)し出土(しゅつど)した品数々がある。
まず、石器(せっき)時代(じだい)から縄文(じょうもん)・弥生(やよい)時代の
文化が発達(はったつ)し始めた頃(ころ)に、
少しずつ開かれ出した自然界(しぜんかい)の神秘(しんぴ)、
夢(ゆめ)の浮(う)き嶋・伽(おとぎ)の国のような嶋を、
石器時代には市杵嶋(いちきしま)姫(ひめ)(市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと=天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔鳴尊(スサノオノミコト)との間に生じた宗像(むなかた)3女神の1。
厳島神社(いつくしまじんじゃ)の祭神(さいしん)とも)が方々を
巡(めぐ)り歩く途中(とちゅう)に風光(ふうこう)明媚(めいび)
(山水の景色がすぐれて美しく人の心をひきつける)で
神秘(しんぴ)の祝島の地、ここを永住の地に定めたいと思(おぼ)し召(め)されたが、
残念(ざんねん)ながら七浦(ななうら)蛭子(えびす)に
一浦足(た)りぬ(七浦蛭子に一浦足りぬは意味不明)、
そこで宮嶋を目指(めざ)して移住(いじゅう)の時に
櫛(くし)とコーガイ(髪(かみ)をかきあげるのに使う道具、
箸に似ている)を落されたとか。今の櫛石・コーガイ石(材質=銀・象牙(ぞうげ))はそれを真似(まね)して伝(つた)えたものであろうか。)」

おしいですね、あと一歩でメジャーデビューの機会をのがしました。
「十四代仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)、神功(じんぐう)皇后(こうごう)が三韓(さんかん)(新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高麗(こうらい))征伐(せいばつ)の時に、瀬戸内海(せとないかい)を帰航(きこう)するおりに、戦国(せんごく)船(ぶね)を繋(つな)がれたとみられる濱(はま)の平も、今では陸地(りくち)や畠(はたけ)となり、祝島が、蓬莱(ほうらい)嶋(じま)・硫黄(いおう)嶋・岩疊(いわたたみ)嶋・石見嶋(いわみしま)と呼(よ)ばれるころには、最早(もはや)、航海上(こうかいじょう)の要路(ようろ)の嶋として広く社会へ知られていた。」
  
 会報で紹介した田中繁雄氏の「神功皇后」で書かれた出来事です。
田中氏は誰から祝島の話を聞いたかもう覚えていないらしいのですが、
祝島については興味をもっておられるようで
島に「額田王」がきたという伝承はありませんかとも聞かれました。
田中氏も「額田王」が熱き田津の湊を出発した後,
祝島にも立ち寄ったのではないかと考えられているようです。
(いずれ「額田王」についても小説をだされるようでいろいろ調査されているとのことでした。)

「用命(ようめい)天皇が、豊後(ぶんご)から帰る途中(とちゅう)、
玉依(たまより)姫(ひめ)(記紀神話(ききしんわ)で
綿津見神(わだつみのかみ)(海神)のむすめ。
鶴鷲草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の妃(きさき)で
神武(じんむ)天皇(てんのう)等(とう)の母など3説(せつ)あり)を
我(わ)がものにしたいと考え、真野(まの)の長者(ちょうじゃ)を
訪(たず)ねたおりに、般若(はんにゃ)姫(ひめ)が、
玉依(たまより)姫(ひめ)の身(み)変(が)わりとなって、
海の神にと身を投(とう)じた。
今も残る大畠(おおばたけ)の瀬戸(せと)では、年の暮(く)れ、
満潮(まんちょう)の丑(うし)三(み)つ時(どき)になると
灯明(とうみょう)が上がり、
伊保庄(いほのしょう)般若寺(はんにゃじ)の老(お)い松(まつ)の基(もと)へ火が灯(とも)り、
最後(さいご)に御堂(おどう)の仏壇(ぶつだん)へ火が灯(とも)ったという現象(げんしょう)が起きるとの実例(じつれい)こそは、不知火(しらぬい)(暗闇(くらやみ)の海に表(あらわ)れる得体(えたい)の知(し)れない多くの火)の火魂(ひだま)と呼(よ)び、そのおり島の名も祝嶋にと変わり、今なお残る祝(いわい)の口(くち)に船(ふね)を着(つ)けられて、祝いの酒盛(さかも)りをされたという。」

柳井の「般若姫伝説」に関わる祝島。
海に身を投じた般若姫の眠る平生の般若寺の観音堂右側にある日光・月光の窓には、
毎年陰暦の大晦日、丑寅の刻、海上から上がった火の玉がするすると入っていくと云われているそうです。

2008年02月24日

祝島の洋菓子といえば「橋本のシュークリーム」

子供の頃に食べていたなつかしい橋本のシュークリーム

<シュー>
バター70g、水90cc、小麦粉75g、卵3から3.5個

<カスタード>
バター12g、粉18g、卵1個、牛乳180cc、砂糖75g
作り方は普通のシュークリームと一緒です。
※卵は全卵を使い、バニラエッセンスを入れません。
 とろみはコーンスターチではなく小麦粉を使います。
  (というかそんなハイカラなものがなかった)

そうすると昔懐かしい、田舎くさいシュークリームの出来上がり。

ネット21の会報に掲載するたに20年ぶりに作成
覚えているもんですねえ。

2008年02月11日

胡麻パウンドケーキ

これのリベンジ

ESSE2006年1月号の太白胡麻油の広告ページのレシピ。
この前はホシイモがあったせいか脹らまなかったのだけど今回はばっちり脹らんだ。
ネット21の会報に載せるために焼く。
テーマは「おフランスな祝島ライフ」hidebe-に怒られそうだわ。
横山の胡麻入り。なので匂いがすごい!
明日の事務所のおやつで試食。どんな味か不気味。

朝はご飯

浜本の塩さばに祝島のみそ入りじゃがいもの味噌汁。
塩さばは冷凍したものを焼きなおしたのだけどめちゃうま!さくさく。
(昨日の電話で思い出した)
味噌汁も美味しい。なんで島の食材はこんなに美味しいのかしら。

お昼はこれまた大好物の上六「ル・アイ」の香草パン

フランスパン210円

香草バター450円に値上がり。
こんなにノーテンキに幸せで申し訳ない。
今にきっとばちがあたるわ。

2008年01月31日


槌谷のおばちゃん作 あんべん。よもぎ。
やっぱしうまい。

2008年01月22日

寿司処「海どう」

恒例のN大F教授来阪による飲会。

本日の席はこちら。天満橋寿司処「海どう」
お店は路地の奥にあって隠れ家的な雰囲気。



突き出しには八寸。写真はかろうじてこれだけ撮影。
他,お刺身の盛り合わせ,野菜のてんぷら、カキフライ、ホタテの炒め物、あなごのしら焼き、あん肝(サービス)、牛肉のたたき、日本酒はあらゆる種類を制覇・・何合飲んだか不明。
魚料理の種類が豊富でお魚も新鮮、美味しい。
本日の会計は一人5000円。
隣の席の女子が食べてた寿司のコースも美味しそうだった。
接待にも使えそう。

2次会は同じく天満橋のバー「」。
ジントニック2杯。つまみにミックスナッツとガーリックトースト。
議論白熱。声がでかすぎると注意を受ける・・・

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2008年01月15日

「祝島の法律はゆるいが常識は厳しい」
hanaさんから教えてもらったrikiちゃんの名言。
祝島社会が端的に表現されている。

続きを読む "!"

2007年12月16日

「祝島の思い出」

中村さんが書いた「祝島の思い出」が
どんな内容なのかというメールをいただいたので一部をご紹介します。
1973年7月末から8月の初めの5日間、自然班・経済班・文化班・社会班に分かれ祝島で調査を行ったときの感想を書いています。 
中村さんは城南高校 郷土研究部の2年生
 当時 中学か小学高学年の私たちは朝から夕方まで海にいて
長い夏休みを満喫していたのでしょう。
祝島の風景と暮らしが目に浮かぶような詩的な文章です。
◇◇◇
 (略)
 山の中腹の真っ白な校舎は船の上からもよく見えた。
途中の家々はみな軒ほどもある練り塀に囲まれている。
その間に敷き詰められた琉球風な石畳を歩いていると、異国の情緒というよりは潮と干魚のにおいがする漁師町に僕は郷愁のようなものを感じた。
すっかり日の暮れた校庭からは夜の港が一望できた。
もう、一つ二つ漁火がともっている。きれいだ。
 その日は何を血迷ったかみんなおとなしく寝た。
僕は毎晩おとなしく寝たのだが、毎朝港中に響き渡るラジオに体操に起こされ続けた。
(略)
 翌日は先生と一緒にこんなことを繰り返し、昼ごろには、やはり三浦にすわりこんでいた。
船がつかないこの入り江は僕のお気に入りの場所だった。
スズメおどしのガス銃が入り江に響き渡る、と、その後にはいっそうの静けさがかえってくる。
堤防では弁当を開いて幸福感に浸った。
三浦から少し足をのばすと小島が見える。
小島は男性的だ。泳ぎわたろうとしたが失敗した。
またここではロッククライミングをも試みた。もちろん、失敗した。
 夕食までは、よく港をぶらついた。
僕はこの島特産のムシパンが気にいって、何回か堤防にすわって食べた。
船大工さんの小屋から船がでていく音がする。
砂利山のそばに顔見知りになった工事屋さんが一服している。
しばらくすると、子供たちのはしゃいだ声が聞こえてきた。
島の子が海水浴から帰ってきたようだ。
その真っ黒な顔と純真な笑い声がとても印象的だった。
島ではいろんな機会に人々の好意を受けた。そんな時、今まで失っていたものにめぐりあったような気がして、たまらなくうれしくなる。
民家を訪問した班の人などは、いろんなものをごちそうになったことを吹聴して、さんざん僕たちをうらやましがらせた。
活動の後の夕食は実にうまかった。が、食卓まで飛び回るアブには、だいぶ閉口した。
夜は自由時間だ。
僕は、発作的に島の中をマラソンした晩もあったが、たいていは堤防に座って海を見ていた。
ふっと空を見上げると、こぼおれ落ちてきそうな星のひとつひとつがまるで宝石のようにまたたいている。
「天の川だ!」その美しさに見とれていると、横でものの情緒を解さぬ一年どもが、ポンポンと花火を打ち上げ始めた。
きれいな光が、上がっては海に消えてゆく。
僕は毎晩、港にでるたびに、手持ちの花火が少なくなっていくような、そんな気持ちにかられてとてもさびしかった。
そんなおり、一年がみんなから金を集めて花火を買いにいくようすに、なにかしらおかしさを感じた。
 島にお別れをつげる夜も漁火はともっていた。
それはここを訪れた夜に、校庭からみたものよりも寂しく光ってみえた。
◇◇◇
 三浦の静けさや祝島の夏の夜空・・・・郷愁をそそるでしょう。
<しかし三浦から小島を泳ぎ渡るなど恐ろしいことを考えるのは島の怖さを知らんもんのすることです>

2007年12月12日

またかい祝島

hanaさんからどこの城南高校かわかりませんが
と送ってもらった「祝島」

なんとたぬこちゃんの出身高校でした。
おそらく名芸専のメンバーで学友の出身高校を覚えているようなアホはいてないと思うけど
なぜだかたぬこちゃんの出身高校だけ覚えていた私。
中身を読んであれっと思って久しぶりにメールを入れて確認。
城南高校の郷土研究部が島にやってきたのは私たちが中学1年か小学6年。
中村真一郎さんの「祝島の思い出」にはまさにその当時の私達の姿が書かれています。
なんとも感慨深い資料をいただきました。感謝。
この中村さん今はどうしているのでしょうか。

これがきっかけで送れたメールで勝雄ちゃんの「東工大」入学を知る、おめでとう!

2007年12月02日

永禄4年

今日のNHK大河ドラマ「風林火山」は
激戦を極めた第4次川中島の戦いに出陣、決戦前。
頼山陽が「鞭聲粛々夜川を渡る」と読んだ戦いが始まろうとしています。
永禄4年(1561)の八幡原の激戦。
同年祝島では「八幡宮」の造営が行われています。
その時の棟札には「上棟奉建立八幡宮本願長蔵寺」という興味深い文字が刻まれています。

2007年11月25日

さくら楽団 CD

hanaさんから送っていただいた祝島“さくら楽団”CD
かろうじて私の生まれる前の年に録音されたものだそうで
宴席参加者の会話も入ったりして感慨無量のCDであります。
詳しいことは今(来?)月発行の祝島ネット21hanaさんの記事をご覧あれ!
祝島関係者は大笑いできると思います。
しかしこのCDの歌声は泣けます・・・・すばらしい!
よくぞこんなもの(表現がまずいけど)を残していてくれました。
こちらで『祝島賛歌』だけでなくこのさくら楽団も流してほしいわ。
お客さんにバカ受け間違いなし!

三百六十五夜
ふるさとの灯台
赤いハンカチ
酒は涙かため息か
民謡
帰り舟
名残りはつきない
花摘む野辺に日は落ちて

祝島の歌姫と言われた(こんな人もいたのね)Nさんの切ない歌声、
哀愁ただようギターの音色に心があらわれるようです。
これが素人かいな!とつっこみをいれたくなります。
さすが芸達者な祝島人!すばらしい。

2007年10月16日

あけび


1個 なんと980円也。
祝島の山じゃとり放題なのに。

2007年10月13日

祝島未来航海プロジェクト 

祝島ネットのメーリングリストで
『祝島未来航海プロジェクト  一流の離島 ・地球船 祝島丸』
というU氏のプロジェクトの原案なるものが送られてきました。
町長選では負けてしまったけどそれをきっかけに
祝島が動き始めました。
内容は水俣前市長の提唱した『もやい直し』に通じるものがあります。
もやいとは共同してする仕事、つなぎ合わせることを意味するそうです。
もやい直しとはバラバラになってしまった心の絆を、
もう一度つなぎなおそう、やりなおそうという意味です。

2007年10月10日

実家から


けんちょう汁、大好物。
祝島でこれをこう呼ぶのはもしかしてうちだけ?


浜本製のサラダ。よばれのサラダです。美味しい。

浜本製のおから。
味がしっかりしみているのでこれだけで食べるはもったいない。

2007年09月25日

上関町長選_その2

上関町長選で山戸君がかかげた「一流の田舎づくり」
なかなかいいじゃん!
農業に携わる山戸君にこそ言える言葉。
こんなブログ、知らないから送ってもしょうがないけどエールを送ろう。
山戸君には柳田國男流ではなく宮本常一流でお願いします。
<役はきちんとはたし、時間は守った方がいいと思うけど。>

赤坂憲雄氏の『風景を作る思想をもとめて』
柳田国男と宮本常一の隠岐の旅でのエッセイを比較したものです。
(文字をうつのがめんどうなので柳田さんの記載ははぶきます)

 宮本が西郷の港につくと26年ぶりに見る町は見違えるように明るく、港も家々も立派になっていた。店舗も本土の都市と変わらず、そこに並んでいる商品も全国均一のマスプロ製品であった。
宮本は以下のように書いている。

西郷の町がりっぱになったことは喜ぶべきことであるが、
それが島内の背後農村の経済的発展と充実によって立派になったのではなく、
外来者すなわち観光客を相手にして化粧がえをしたものであるとするならば、
一種の植民地的な性格を持ってき始めたことになる。
つまりその町の発展が外来者のためのものであり、
町の背後にひろがる島内全体の農漁民のために大して貢献しないようならば
それはコミュニティセンターとしての役割をはたさなくなってきたことにあり、
地方都市としての意義を失いつつあることになる。

 じつは、私はこの宮本の旅からさらに30年ほど経て、隠岐を訪ねている。
まばゆいくらい明るくモダンな町並みが現れて、茫然とした。
 宮本が危惧した、観光客を相手にした化粧変えによって、
「一種の植民地的な」状況を現出しているのではないかと感じた。
むろん、それ自体は高度成長期以降の列島のそこかしこで起こった、
じつにありふれた出来事にすぎない。
隠岐の島々にも、たくさんの公共事業が誘致され、
風景を大きく変容させたのである。

 それにしても柳田は隠岐の風景の寂しさを指摘し、観光振興のための方策をいくつか提案してみせた。 宮本の提言はまさに、そうした観光事業がもたらした功罪を検証しなおし、あらためて島の経済的な発展の向かうべき方位を示唆しようとしたものであった。


頑張れ山戸君!
おおいなる田舎を実現しておくれ~

上関町長選_その1

今日は上関町長選の告示日。
投票日は9月30日。
やはり原発の是非をとう選挙だ。
原発問題がおこって実に25年。(祝島HPで書かれて10年もたった!)
この原発誘致の話がなければ私達祝島島民の人生は大きく違っていたと思う。
今回立候補した山戸君も島には帰ってこなかったのかもしれない。

原発問題なんかどこかよその地域の問題で無関心だった時代もあったのに。
人間ってほんとうに勝手なもんで、うちに造るのなら巨大な電力を必要とする都市部か工場地帯につくれよと思ってしまう。

実のところ原発が建つ前に すでに私達は多くのものを失ってしまったのだ。
特に反対・賛成 意見の喰い違いが同族内におこってしまった私にとっては
原発は環境問題どころではない。
もっと直接的な破壊、人間としての尊厳を失ってしまうような非情な状況だっだ。
デモでさけばれるえげつないシュプレイヒコール、
親の死に目にも会えず、兄弟のお葬式にもいけない、長い間そんな状況を強いられてきた。
情のあつい、やさしい祝島人はどこへいった。

今になって思えばその時点ですでに私達は負けてしまったのかもしれない。
原発賛成も反対も関係ない。
もう少しみんなで議論して答えを出していたら原発誘致を違う方向へ変換できたのかもしれない。
その分裂こそをお上は望んでいたのかもしれない。
おそらく原発誘致をしてきた地域ではこのような痛ましい分裂があって今でもその傷はいえずに重くのしかかっているのだろう。
その傷がなくなるのには核と同じように気の遠くなるような歳月が必要となるのだろう。
私達が失ったものはとてつもなく大きい・・・・。

2007年08月16日

よもぎまんじゅう


今夏はおばちゃんがいそがしそうだったんであきらめていた槌屋のよもぎまんじゅう。
帰り際にちょうだいする。
船の中で白の饅頭ふたつは食べてしまった。
やっぱり夏はこれだよ。

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2007年07月22日

ポスト・コミニュティ時代 その2

“外側と鉄の扉一枚で完全にきれてしまう完全密室が本当によいのか。
家族という単位は密室の中にそれほど閉じていないといけないものなのか。”

という疑問に対し、山本理顕氏は様々な試みを行っているが
当の家族には開く動機がなく「誰もそんなこと頼んでいないよ」と言われるのがおちだともわかっている。
しかし、その閉鎖性が現在社会の闇を作ってしまったことも事実でそれをなんとか家族の側から開かせることができないかと考える。

“一家族単位の高いプラーバシーの単位がもし外側と何らかの関係をもつとしたら,自己充足していた状態から自己充足できなくなったときに、外側と何らかの関わりがでてくるんじゃないかというふうに考えました。
たとえば幼児を保育所に預けるとか、高齢者を特別養護老人ホームに預けるとか、そういう状態になるととたんに住まいの自己充足性が破れてくるわけです。
でも、そういうものを外にほおりだすことによって、中のプライバシー単位は、相変わらず密室性を担保できるわけです。
破れそうなものは皆外に出してしまう。そういう状況が現代は住宅というハコの中でおきているわですよね。
それはなるべく自己充足したプライバシーを、住宅の外側から破られないような社会保障のシステムをつくろうとしているのではないかと思うのです。
でもほんとうはそうであるべきでないとしたら、どんなふうに外と関わるべきかを考えたいと思いました。
外にもっていってしまうのではなくて、住宅の中で何かをしようとすると、そこで初めて住宅と外の世界の相互の関係を考えるきっかけになるのではないかと思いました。
つまり、住宅の自己充足性が破れたときに、破れでたもののケアをし、何らかのかたちでサポートするということが集合住宅という単位の中で可能性があるとしたら、初めて集合住宅というものは密室化された住宅の単なるコピー&ペーストとは違って、もうひとつ違う関わり会い方がありえるようになるかもしれない。”

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2007年06月04日

祝島の歴史を探る「盆くどき(1)」

“いつも踊らぬタッケエババアが、あしたはどんだ~け体重がへっとるか”
これ、何だと思いますか。
ユミさんがこの夏に唄った盆口説きです。
今回はこの「盆踊り」、「盆口説き」について考えてみたいと思います。
日本3大盆踊りのひとつに郡上八幡の徹夜踊りがあります。十曲の盆踊りを踊り手の様子を見ながら夜の8時から翌朝4時くらいまで繰り返し唄い、踊り続けます。
その口説きの中に『ヤッチク』という歌集があり、『白井権八』という口説きがあります。これは木村先生のhpに記載された『平井権八』と似たようなというかまったく同じで微妙に違う歌詞です。初めてこの歌詞をみたとき、大発見と勘違いしたのですが『平井権八』は実在の人物でこの人が起こした人情沙汰が芝居になったり、歌舞伎になったりして全国的に普及した唄のようです。郡上八幡には旅芸人が多く訪れて口説き唄や芸能をもたらし、伊勢参りや京へ江戸への人の行き来のオウライからも各地のおどり唄や座敷唄なども伝えられていきました。郡上に限らず盆口説きにはこうして歌い継がれてきた同じような唄が全国各地に存在しているようです。橋部さんの話では祝島でも『平井権八』の他に「鈴木主人」「お艶、清人」「木幡小兵次」などがあるようです。どれも全国的に唄われている唄です。
その他郡上八幡の盆口説きの中で唄われる“かわさき”もこの地方の盆口説きの中に多く存在します。
これは伊勢の“かわさき”に由来するものではないかと言われていています。江戸時代になると伊勢参りが全国的に流行し、伊勢神宮に参拝した後伊勢の河崎で精進落としをします。そこではやった“伊勢音頭”が郡上に戻ってきた人達によって伝承され“かわさき”となったのではないかということです。手のふりが印象的な踊りで手をならし下駄を履いた足で地面を蹴るしぐさ。祝島の踊りも手を打つ、地面をけります。手をならすのは拍手を意味し、下駄を強くふみならして地面を強くたたくのは、たたくことによって邪気をはらうという意味があるそうです。祝島の踊りもこの“かわさき”の踊りに共通するところが多いように思います。
踊りは十六世紀に盛んになった念仏踊りや風流踊りの流行で日本各地に伝わっていきました。盆踊りはその踊りの後に踊られたもので庶民の娯楽の少なかった時代には最大の娯楽として発展し、社交の場としても大いに賑わいました。そういうわけで踊りの歌詞の中に男女の情愛を唄っていたものが多いのも盆口説きの特徴のようです。

最後にこの夏の盆口説きの新作を紹介して終わりにします。
今回は資料が集まらず、まえふりということでお許しください。
「かずまもこんやはがんばってくどけ、いつもおこられまいにちすごす。(アラマカショイ)おこられておもうのはじぶんだけでござる。(アラヨヤサノセヨヤサノセ)じぶんをおもってゆうてることを。(アラマカショイ)それをおこられるとおもうのがまちがい。(アラヨヤサノセヨヤサノセ)かずまもおばちゃんにいつでもおこられ。(アラマカショイ)それでもいつでもゆみちゃん、ゆみちゃん。(アラヨヤサノセヨヤサノセ)いちばんかわいいかずまでござる。(アラヨヤサノセヨヤサノセ)つぎにかわいいのはみさきかりゅうま。(アラヨヤサノセヨヤサノセ)ここでじゃんけんしてもらおうか。(アラヨヤサノセヨヤサノセ)みさきまけたらいつでもおこる。(アラヨヤサノセヨヤサノセ)りゅうまはいつでもがまんのしっぱなし。(アラマカショイ)こんやははめはずしてぼんおどりしな。(アラヨヤサノセヨヤサノセ)」
ユミさんのほれぼれするような唄声と踊子の調子の良さが見事にマッチして楽しい盆踊りでした。
余談ですが毎年太鼓をたたいてくれる“イックーサー”が「ひとりで太鼓をたたくのはしんどいので誰か替わる人を来年はお願いします。」と橋部さんに泣きをいれていました。相棒のたっけーちゃんもいなくなって段々名物人間がいなくなり、寂しい盆踊りになりました。これも歳をとったということでしょうか。ほんと「盆は二度ある。若いときゃ一度(アラマカショイ)!」

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