祝島・えべすや@祝島の情報

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2007年12月16日

「祝島の思い出」

中村さんが書いた「祝島の思い出」が
どんな内容なのかというメールをいただいたので一部をご紹介します。
1973年7月末から8月の初めの5日間、自然班・経済班・文化班・社会班に分かれ祝島で調査を行ったときの感想を書いています。 
中村さんは城南高校 郷土研究部の2年生
 当時 中学か小学高学年の私たちは朝から夕方まで海にいて
長い夏休みを満喫していたのでしょう。
祝島の風景と暮らしが目に浮かぶような詩的な文章です。
◇◇◇
 (略)
 山の中腹の真っ白な校舎は船の上からもよく見えた。
途中の家々はみな軒ほどもある練り塀に囲まれている。
その間に敷き詰められた琉球風な石畳を歩いていると、異国の情緒というよりは潮と干魚のにおいがする漁師町に僕は郷愁のようなものを感じた。
すっかり日の暮れた校庭からは夜の港が一望できた。
もう、一つ二つ漁火がともっている。きれいだ。
 その日は何を血迷ったかみんなおとなしく寝た。
僕は毎晩おとなしく寝たのだが、毎朝港中に響き渡るラジオに体操に起こされ続けた。
(略)
 翌日は先生と一緒にこんなことを繰り返し、昼ごろには、やはり三浦にすわりこんでいた。
船がつかないこの入り江は僕のお気に入りの場所だった。
スズメおどしのガス銃が入り江に響き渡る、と、その後にはいっそうの静けさがかえってくる。
堤防では弁当を開いて幸福感に浸った。
三浦から少し足をのばすと小島が見える。
小島は男性的だ。泳ぎわたろうとしたが失敗した。
またここではロッククライミングをも試みた。もちろん、失敗した。
 夕食までは、よく港をぶらついた。
僕はこの島特産のムシパンが気にいって、何回か堤防にすわって食べた。
船大工さんの小屋から船がでていく音がする。
砂利山のそばに顔見知りになった工事屋さんが一服している。
しばらくすると、子供たちのはしゃいだ声が聞こえてきた。
島の子が海水浴から帰ってきたようだ。
その真っ黒な顔と純真な笑い声がとても印象的だった。
島ではいろんな機会に人々の好意を受けた。そんな時、今まで失っていたものにめぐりあったような気がして、たまらなくうれしくなる。
民家を訪問した班の人などは、いろんなものをごちそうになったことを吹聴して、さんざん僕たちをうらやましがらせた。
活動の後の夕食は実にうまかった。が、食卓まで飛び回るアブには、だいぶ閉口した。
夜は自由時間だ。
僕は、発作的に島の中をマラソンした晩もあったが、たいていは堤防に座って海を見ていた。
ふっと空を見上げると、こぼおれ落ちてきそうな星のひとつひとつがまるで宝石のようにまたたいている。
「天の川だ!」その美しさに見とれていると、横でものの情緒を解さぬ一年どもが、ポンポンと花火を打ち上げ始めた。
きれいな光が、上がっては海に消えてゆく。
僕は毎晩、港にでるたびに、手持ちの花火が少なくなっていくような、そんな気持ちにかられてとてもさびしかった。
そんなおり、一年がみんなから金を集めて花火を買いにいくようすに、なにかしらおかしさを感じた。
 島にお別れをつげる夜も漁火はともっていた。
それはここを訪れた夜に、校庭からみたものよりも寂しく光ってみえた。
◇◇◇
 三浦の静けさや祝島の夏の夜空・・・・郷愁をそそるでしょう。
<しかし三浦から小島を泳ぎ渡るなど恐ろしいことを考えるのは島の怖さを知らんもんのすることです>