祝島・えべすや@祝島の情報

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2007年07月22日

ポスト・コミニュティ時代 その2

“外側と鉄の扉一枚で完全にきれてしまう完全密室が本当によいのか。
家族という単位は密室の中にそれほど閉じていないといけないものなのか。”

という疑問に対し、山本理顕氏は様々な試みを行っているが
当の家族には開く動機がなく「誰もそんなこと頼んでいないよ」と言われるのがおちだともわかっている。
しかし、その閉鎖性が現在社会の闇を作ってしまったことも事実でそれをなんとか家族の側から開かせることができないかと考える。

“一家族単位の高いプラーバシーの単位がもし外側と何らかの関係をもつとしたら,自己充足していた状態から自己充足できなくなったときに、外側と何らかの関わりがでてくるんじゃないかというふうに考えました。
たとえば幼児を保育所に預けるとか、高齢者を特別養護老人ホームに預けるとか、そういう状態になるととたんに住まいの自己充足性が破れてくるわけです。
でも、そういうものを外にほおりだすことによって、中のプライバシー単位は、相変わらず密室性を担保できるわけです。
破れそうなものは皆外に出してしまう。そういう状況が現代は住宅というハコの中でおきているわですよね。
それはなるべく自己充足したプライバシーを、住宅の外側から破られないような社会保障のシステムをつくろうとしているのではないかと思うのです。
でもほんとうはそうであるべきでないとしたら、どんなふうに外と関わるべきかを考えたいと思いました。
外にもっていってしまうのではなくて、住宅の中で何かをしようとすると、そこで初めて住宅と外の世界の相互の関係を考えるきっかけになるのではないかと思いました。
つまり、住宅の自己充足性が破れたときに、破れでたもののケアをし、何らかのかたちでサポートするということが集合住宅という単位の中で可能性があるとしたら、初めて集合住宅というものは密室化された住宅の単なるコピー&ペーストとは違って、もうひとつ違う関わり会い方がありえるようになるかもしれない。”

 「自己充足できなくなったときに,外側と何らかの関わりがでてくる」

最近仕事が続いている保育園では今や園児の半数以上へたをすると2/3が片親らしい。
 <幼稚園でなく保育園という性格もあるのかもしれないが>
「離婚」という家族崩壊も“自己充足できなくなったとき”であろう。
離婚は父・母の役割をどちらか一人で背負うことになることで、当然家族内で完結できなくなる。 
そうしたときに内(家)に対して解決方法をみいだそうとせず、思い切って社会に向かって開いてみれ ば意外と受け入れてもらえるのではないか。
そう思えるような出来事が我が家におこった。
それは“いやおうなし”にであったが、自分達が想像していたものとは全く違う「世間」の応答によって崩壊後の我が家は回復することができた。
そこには私達が気嫌いしたコミニュティが発生し、未完結の家族は嫌悪感を感じていた村落共同体によってささえられているのである。
この“いやおうなし”という状況、環境にプランの答えがみつかるのかもしれない。

渡辺氏
“コミュニティという言葉が一時もてはやされたが、その後長い間むしろ忌逃されてきたのは日本にはコミュニティの規範とすべきモデルが村落共同体しかなかったことがそのひとつの理由ではないかと書いた。その結果「計画」が共同体を生じるという幻想は今日誰ももっていない。”

しかし日本社会がつちかってきた村落共同体によって多くのものが救われたのも事実だ。

磯崎新氏
“論理(nldk)によらず、「世間」からも距離をおきえるようなまちづくりの根底には「倫理」が必要となるであろう。”“人間と人間の間には「お互いに何かしらの暗黙の理解」があるのではないか。”


これをどうやってプランニングすりゃいいのか・・・